死ぬくらいなら殺せ

『ペトラは静かに対峙する』を観た



多分ジャウメの醜悪さが誰の印象にも残ると思う

被害者意識が気に食わないだかなんだか知らないが息子の幸せをぶち壊し平然として家政婦を自殺に追い込む

直後はなんでこんなことが出来るのか?どうしたらこんなひん曲がった人間になるのか?

と思ったけど

なんでそんなことが出来るのか?と神経を疑われるような悪事をするのは何か一つのことに没頭するのとほとんど同じなんじゃないか




ペトラの作品に対して自己セラピー的で鑑賞する人の気持ちを考えておらず覇気がないと言う芸術家ジャウメの作品がじゃあいかに覇気を宿した素晴らしいものなのか素人なのでよく分からない

鑑賞する人の気持ちに寄り添い"金になりそうな"ものを追い求めたのか

それとも没頭した状態で一気呵成に完成させたものなのか



常人はこれをすることで人がどう思うか、自分がどうなるのか、未来があることを想定して選択する

なんかムカついた、こっちの方が面白そう、今はめんどくさい、くらいの理由で人を死に追い詰めたり、傑作を生み出したりはできない

ジャウメにはそんな瞬間のエネルギーみたいなものがあるのかなぁと感じた



このブログのタイトルはルカスに捧ぐ。

取り返しのつかないことをして罪悪感に苛まれない人間というのは本当にいるので、そいつのせいで死ぬくらいなら殺した方がいい

子供も妻もいて、そもそも自殺の原因になった点が勘違いであるにも関わらず死んでしまう所は父譲りの瞬間のエネルギーか?内向的。

人を殺すより自分を殺す方が容易いと考える人間は少数派だと思った

ルカスと家政婦の息子が仲良しな理由はジャウメが嫌いなところが共通してるからという種明かしなのだろうか







ラストシーンは赦しなのか?一緒に映画を観た先輩と話した。

結論は出ない

ペトラの強さはどこから来るのだろう

守るべき子供がいるから、とも考えたが同じ状況のはずのペトラの旦那は自殺してしまったし

不眠症を抱えても薬では治らない自力で乗り越えると言える精神はフィクション作品という感じ

事が大きすぎると人に頼る気もなくすのかもしれない それだったら少しわかるな




今日は伊勢丹で新しいリップを買ったり、美味しいロールキャベツシチューを食べたりして、よかった。

反転

昨年の三月の終わりまで津田沼で家庭教師をやっていた。

生徒は男子校に通う、あまり真面目ではないが明るい子であった。

津田沼の駅構内には、麺が何やらふやけている、讃岐うどんを名乗るには早すぎるうどんを出す店があった。しかしそこの店は汁と豚肉がべらぼうに旨く、俺は指導前に此処で肉うどん、並、ねぎ抜きを食うのが一種のルーティンとなっていた。

三月の最終週はその生徒の指導終了の日だった。そいつとその親は俺にたくさんの感謝の言葉を述べ、図書券をくれた。俺は漱石でも買ってやろうと思った。

さて、これでもう津田沼に来る用事は一切合切なくなってしまった。俺の家は桜台だ。

そこで最後にもう一度あのうどんを食べようと思った。俺は指導後に会う予定だった彼女を津田沼まで呼び出した。

「なんで津田沼?」

という彼女に俺は美味いうどん屋があるのだと伝えた。何だそんなことで、という顔をしているのは分かりきっていたから、真っ直ぐうどん屋へ向かった。

「肉うどん、並、ねぎ抜き」

これを言うのもきっと最後だ、と思った。

うどんを取って、隣に座った彼女に、ここは汁がべらぼうに旨いんだ、と伝えるや否や、彼女は麺を啜り始めた。何も聞いちゃいねぇ。

なんて女だ。俺は愕然とした。ぶっ殺してやろうか。そんな気持ちにすらなった。断っておくと、別に彼女のことが嫌いなわけではなかったが。

そんな心中とはなんの関係もなく、うどんの汁はやはり旨く、麺はふやけていた。



そして今日俺は新しいバイトの面接でたまたま津田沼に降り立った。帰りにうどん屋が目に入り、そういえば家庭教師の仕事を終えて以来食べていないな、と思いながら店に入った。

肉うどん、並、ねぎ抜き、変わらぬ550円。

そうか、家庭教師が終わってもうどんは食べられるのだ、うどんは550円があればいつでも食べられるのだ、生徒がもう他人になっても、あの時の彼女とくだらない理由で別れてしまっても、俺かその気になってここに来れば、うどんは食べられる。

だいたい何でもそうなんじゃないか。